O.Hen-ro その4

2016年11月3日

朝5時に目が覚めた。

「目が覚めた」で思い出したことがある。

私が夜勤から帰って来て3時に寝る。

2時間ほど睡眠をして5時半に目が覚める。

何を思ったのか私は会社の服に着替え、

会社に向かう。

しまったなあ、もうすでに会社は始まってる、

急がなきゃと。

ラジオから天気予報が流れる。

今日の愛知県地方の天気は・・・・。

待てよ、なんで夕方に今日の天気予報を

やるんだ、そう言えば夕方にしては歩いて

いる人はまばらだ。

そこで私は気づく。

そうだ、まだ朝の5時なんだと。

夕方と朝方の5時が同じ明るさの季節に

2度ほどこんな大ボケをかましました。

突「そりゃ、大ボケじゃなくて寝ぼけと言うんだよ」

窓のカーテンを開ける。

今日もいい天気だ。

昨日、コンビニで買ったサンドイッチをコーヒー

で流し込む。

服に着替えベッドに横になってテレビを点ける。

祝日にやるNHKの「インタビュー」をやっていた。

ゲストは医事漫談のケーシー高峰さんだった。

家族は全員医者で自分も医学部に入った。

ある日ラジオから徳川夢声さんの語る「宮本武蔵」が

流れて来た。

そのとき武蔵は音もなく襖をガラガラと開けたと

言うのが可笑しくて、お笑いがやりたくかったとか。

そして医学部から芸術学部に籍を移した。

それが母親にバレて、仕送りは止められ、勘当され

故郷にも帰れなくなった。

以来数十年、やっと現在の地位を築いて勘当が

解かれたと語っていた。

私は彼の同じネタを聞いたことがない。

よほど勉強している人なのだろう。

下ネタも多いが本当は真面目な芸人さんだと思う。

この日やってたネタを一つだけ取り上げよう。

空が赤く見えたら、そりゃ雲真っ赤出血の

前兆だから気を付けよう。

蛇足ではあるが、その他で私が面白いと思う

芸人をあげるとダウンタウンの松本さん、爆問の太田さん、

吉本座長 の小藪さんかな。

あとは売る芸がないから、媚びを売ってる芸人さん

ばかり。

それじゃ芸人じゃなくて媚人(こびと)じゃないか。

ま、視聴者がそれを求めている時代だから

それでいいのかも知れないが。

 

7時10分徳島発の勝浦線に乗る。

乗客はお遍路さんが6人、その他が1人という

構成だ。

今日も朝からよく晴れていて、風も強い。

バスは県庁を過ぎ、昭和町を抜け、津田橋に

さしかかった。

その時、歩道を走っていた自転車の女子高生の

スカートをいたずらな風がつまみあげた。

女子高生の、小麦色に焼けた、白い太ももが見えた。

突「どっちなんだ」

猫「小麦色」

私、今朝の徳川夢声さんのネタをパクってみました。

元ネタ その時武蔵は音もなく襖をガラガラと開けた。

パクリネタ その時女子高生の小麦色に焼けた

白い太ももが露わになった。

このように、パクリと言うのは露骨にやらずに

一捻りしてから放出するとバレないものですよ。

ちなみに自転車の女子高生云々は事実です。

冒頭でも言ったでしょ、体験しないことには

ギャグは生まれないって。

歌でもパクリってよくありますよね。

ウシュクダラ好きです心から、とか(長渕某)

むかしアラブの偉いお坊さんが恋をするものがたり、

とか(桑田某)

たんたんたぬきのタバコ屋のかわいい看板娘とか、(作者不詳)

その他ではユーモレスクとウサギのダンスとか、

こら、ドボルザーク、他人のメロディーパクるんじゃねえよ。

突「逆でしょうが」チャンチャン。

ま、無から有は生じません、人は無意識のうちにどこかを

パクりオリジナルに入って行くものです。

名作だって人が気づかない巧妙なパクリの産物だと思います。

ま、こう言っておけば、上の人たちに怒られないでしょう。

 

論田、中田、日赤病院前を通り、小松島の信号を右折して

33号線に入り、小松島農協前でバスはおばあちゃんを拾った。

特にこのおばあちゃんに意味はない。

ただ覚えていたから書いただけ。

やがてバスは16号線に入り、野上橋を渡らず川沿い

を進んだ。

広い川だが水量はあまり多くない。

10分ほど走ると、ローソンのところで左手から

一本の道が合流する。

立江からの遍路道である。

歩道を歩くお遍路さんの姿がチラホラ見える。

この次のお遍路では私もこの道を歩くのだ。

不安よりもワクワク感で一杯だ。

お遍路さんの一人が人形文化交流館前で降りた。

生名の一つ手前のバス停だ。

バスは乗客を拾うために16号線から勝浦の住宅街へ入り、

インターネットでもよくお目にかかる生名のバス停に

着いた。

私を含めた5人のお遍路は一斉に降りた。

1人はそのまま街道を進んだ。

後の4人はしばらくその場にいた。

ある者は準備体操をするし、ある者はカバンの中身を

調べている。

私はと言えばこれから1時間以上の登山だ、喉が渇く

だろうと500mlのお茶を自販機に買いに行った。

戻って来ても依然として誰も出発しようとしない。

きっとみんな誰かがスタートしたら、ついて行こう

としているみたいだ。

業を煮やした私はついに先頭を切った。

すぐさま体格のいい外国人が私を追い抜いた。

(だったら最初から先頭を切れよ。そんなに人を

追い抜くのが快感なのかよ)

少し経って、もう一人の男性が私の横を

すり抜けて行った。

しばらくは民家の中の緩やかな道が続く。

途中で放し飼いのトイプードルが出て来た。

プードルは私の足に絡み、行く手を遮った。

「こらこら、おぢさんはこれから山に登るんだ。

君とは遊んでられないよ」と私は言った。

「きびだんごくれたら僕もついて行くんだけどな」

と言うような顔して犬は私を見送った。

急に道は険しい上り坂になった。

アスファルトである事だけが唯一の救いであった。

道はやがてアスファルトから、本格的なお遍路道

へと変容を遂げた。

丸太の階段、石の組み合わせた坂道、落葉のスロープ。

その時、麓からスピーカーの公共放送が聞こえてきた。

「みなさん、今日は緊急地震速報の訓練をいたします。

予めご了承ください」

 

ここでついに私は女性のお遍路さんにも抜か

れてしまった。

4人の登山者のうちで最下位である。

中日ドラゴンズと一緒である。

でも悔しいとは思わない。

私は負けず嫌いではなく、負け好きな性分である。

「負けたっていいじゃん」と言うマゾヒストである。

これまでの人生だって、勝ちにこだわらず、のんべん

だらりんと生きてきたし、これからの人生も

のらりくらりと生きていこうと思っている男である。

 

わたしはきょうまで生きて来ました

のんべんだらりんと生きて来ました

そしてわたしは思っています

あしたからものらりくらりと生きて行こうと

 

ただ、目の前の女性だけは失いたくない、ん、あ、違う

違う、見を入れ忘れた。

目の前の女性だけは見失うまいとついて行った。

また十八番の迷子になったら厄介だから。

水呑大師を少し過ぎた辺りまでは、きつい上り坂で

あったが、そこからは幾分緩やかになったように

私には感じた。

これは個人の感想ですけどね。

突「テレビショッピングじゃん」

女性は私にとって、最高のペースメーカーになって

くれた。

苦しくもない、これなら何時間でも続けられるぞと

いう絶妙なペースで私を誘導してくれた。

実は、この女性ともバス停で待ち時間に話をしていた。

彼女は今回のお遍路で藤井寺から焼山寺に登った

と言っていた。

どうでしたかと訊くと、坂道がきついとかの問題では

なく7時間半の永き登山がきつかったと言った。

年の頃なら四十代半ばといったところか。

麓のサイレンが鳴った。

二度三度と鳴り、あの独特の警報音がかすかに

聞こえてきた。

チャラン、チャラン、チャラン

突「それじゃ、こんぺい師匠じゃん」

来なければと願うが、間違いなく来るであろう。

せめて、人々が起きている昼間にきてほしいと願う。

途中で一つの墓石が立っていた。

この地で亡くなられたお遍路さんであろう。合掌。

札所も近い、道標がそれを知らせてくれる。

最後の坂道を彼女と一緒にあがると境内への道に出た。

二度ほど車道を横切った遍路道の終焉である。

時刻は9時25分、バス停でのモタモタがなければ

あと10分は早く着いていただろう。

長い階段を登り、本堂をお参りする。

 

降りて来ると階段の下で、車椅子の女の子が、

お父さん、お母さん、妹さんとお参りをしていた。

切なくなる光景だ。

納経所へ行く。

「車ですか」と訊かれる。

「いえ、歩いて来ました」

私は胸を張って誇らしげに答えた。

ここは駐車料金をとる札所である。

去年は払って、歩くとどれくらいかかりますかと

訊いた記憶がある。

確か、健脚の人なら1時間で登って来ますよ

と言ってたと思う。

私は1時間と10分かかってしまった。

道がわかった次回は10分の短縮をして健脚の仲間入りを

果たしていることだろう。

一緒に登った女性にブログに関するメモ用紙を渡そう

と待っていたが現れなかった。

帰り道、地元の婦人会の方々のボランティアのお接待に

遭遇した。

私は生姜湯とチョコレートをベンチでいただいた。

ただ、チョコ、生姜湯と、いただく順序を間違えた

ものだから生姜湯をただの湯にしてしまった。

昼行燈(ひるあんどん)と同じ理屈である。

どうか読者の皆様で鶴林寺へ行く方が御座いまし

たら生姜湯、チョコレートの順にお召し上がり下さいまし。

そんな深刻な問題ではありませんがね。

先程書いたメモ用紙を、ボランティアの一番若い人

に渡して鶴林寺を後にした。

なぜ若い人なのか、それはやはりITに詳しいん

じゃないかという下心じゃねえ・・・考慮からでした。

お接待のボランティアをしている人だから、お遍路さん

がどんな事を考えているか関心があるんじゃないかと思って。

開けてビックリ、なんじゃこりゃー、お遍路に

かこつけたギャグ紀行文じゃないか。

そんな事はありませんよ、根底には愛が、まるで

吉野の大河のように流れていますよ。

来た道を帰る。

車道には駐車場に入れない車が数珠つなぎである。

今日は文化の日、やはり祝日はお遍路さんは多い。

祝日で多いのだから、これらの人は恐らく地元の

人で、休みのたびに少しづつ札所を廻っているのだろう。

しばらく歩くと向こうから若い娘さんが一人やって来た。

もうすぐですよと私が言うと、有難うございます

と彼女は言った。

再び墓の前にさしかかった。

無縁仏となったお遍路さんであろう。

JR時刻表を見ると、東京岡山間の距離は732kmである。

これだけでも歩けば往復40日はかかるだろう。

それに安楽寺のお坊さんが仰ってた、昔は100日、の

お遍路所要日数を足せば140日である。

つまり昔は江戸からのお遍路となると、最短でも140日は

かかっていたのであろう。

そして思いもよらぬ突然の死。

今なら携帯もあるし、免許証もあるから、お遍路の最中に

亡くなってもすぐに連絡が入り家族は現地に飛ぶだろう。

当時に思いを馳せる。

山の中での突然のお遍路さんの死。

後から通りかかったお遍路さんは鶴林寺へ連絡。

鶴林寺から奉行所へ連絡。

役人がやって来て身元確認するも出来ず、やむなく

その場で土葬。

この人の場合多分そうであろう。

おそらく墓の下にこの人の骨はうまっているだろう。

仮にこの人が身分を証明出来るものをもっていた

としても飛脚を使わして10日かかる。

さらに家族が現地まで来るとして宿泊費、飲食費、

更に飛脚の往復費用と莫大なお金を使う。

そもそも支払い能力があるかどうかも不明なもの

に飛脚を使うことはしないだろう。

そんな事を考えると、当時お遍路さんの死は、一律

土葬としていたのではないかと思うし、お遍路さん

自身も出かける時、家人に、私が帰って来なかった時は

死んだものと思って捜さないでもよい、と、覚悟の

旅立ちではなかったかと思う。

突「なぜお大師様は守ってくれないんですか。

猫さんの話は矛盾しています」

矛盾などしていない。

お釈迦様でも、キリストでも死んだ。

死を悍ましいものと、とらえるな。

 

 

水呑大師のあたりで夫婦らしき外国人にあった。

「コンニチワ」と言った。

「こんにちわ」と私も言った。

チクショウ、得意の英語が使えなかったと、安堵の胸を

撫でおろした。

水吞大師から少し下ったところで私は枯葉に足を

滑らせ仰向けに倒れた。

が、体の柔軟な私はかすり傷一つ負わなかった。

これが体の硬い人だったら後頭部を強打し、

この辺りにまた一つ墓石が建ったかも知れない。

こんなところでギャグ言ってはいけないんですけどね。

到頭私もガイドブックに載っていた遍路転がしを

自らやってしまった。

それにしても下山はひざにくる。

人々がなぜ杖を持っているのか私には今まで

不思議でならなかった。

あんなもの使えばかえって腕が疲れるだけじゃ

ないかと。

でもこの時わかりました、下山に杖は必要ですよ。

膝への負担を軽減します。

まさに転ばぬ先の杖でした。

風は強いが小春日和のよい天気だ。

住宅街を通ったら、再びトイプードルが出て来た。

あんまりじゃれ合うといつまでもついて

来そうだったので適当にあしらって逃げた。

道端にみかんの無人販売があった。

 

 

一袋16個入って100円だったので買った。

時刻は10時30分、次のバスまで1時間以上ある。

途中で地域の集会所のようなものがあったので

寄って住民とお話がしたいな、と戸を開けようと

したが開かなかった。

近くの人に訊いたら、集会がない時は閉まってる

と言った。

じゃあ集会開こうよと、そこまで強引なことは

私には言えなかった。

バス停のベンチに腰掛けた。

去年もこのベンチでバスを待った。

ただ去年はタクシーでこのバス停まで下りて来た。

今年は、遍路転がしをされながらも自分の足で

ここまでやって来た。

まさに長足の進歩だ。

本当はマンチカンみたいに短足ですけどね。

突「そんな可愛いもんかいな」

早速みかんを食べた。

結構、甘くておいしかった。

瞬く間に4個食べてしまった。

ズートルビの「みかん色の恋」を思い出した。

これもなんかのパクリじゃないかな、と思ったが

何だったか思い出せなかった。

目の前を、おばあちゃんが通った。

後ろから自転車が来てベルを鳴らした。

そうだ、ジングルベルだ。

バスは5分遅れてやって来て、4分遅れて徳島駅に着いた。

時刻は11時43分、次のバスまで少し時間があるので

一旦ホテルに戻りみかんを置いて、代わりに「うなぎパイ」

を持ってホテルを出た。

目指すは観音寺、降りるバス停は観音寺北、

13時20分発である。

バス停でおにぎりを食べていると石井循環線がやって来た。

運転手さんが女性だったので、このバス観音寺北に行きます

よねと訊いた。

はい行きますよ、乗りますかと言うが、まだ食事中

だし次のでいいと思ったからいえ乗りませんと言った。

観音寺北は3つの路線が通る。

一つが前述の石井循環線、一つが鴨島線、そして

もう一つがこれから乗ろうと企んでいる石井中経由

神山線である。

そうですよね鴨島さん。

突「彼女はJRの社員だ。そんなこと知るわけないだろ」

ところが待てど暮らせど神山線がやって来ない。

案内所で不機嫌そうにその理由を訊いた。

案内所の人は今日は祝日ですと答えた。

いゃー、おぢさんは一本とられた。

突「言葉の使い方を間違ってます」

時刻表の前の白三角を私は見落としていた。

どうやら先程の女性運転手さんをひやかした

罰が私を訪れたようです。

因果朗報とか言いましたよね。

突「因果応報」

13時40分、残された一つの路線、鴨島線に乗って

14時観音寺北に着いた。

スーパーマルヨシの横の道を通り5分で観音寺に着いた。

10分でお参りを終え、再び来た道に入り左に進む。

田んぼの中を1kmほど行くと192号線と交わり、

そこの信号を渡る。

192号線から枝分かれした道ではあるが、これも

192号線だ。

しばらく行くと左への道が、視野の片隅に入る。

たしか去年この道を来て、このTの字を右折して

信号に出たのを覚えている。

だからこの道でいいんだよなと、恐る恐る左折する。

そうだその道でいいんだ、と背後から声がした。

身なりからしてベテランっぽいお遍路さんだった。

私の自信なさそうな所作を感じ取ってそう言った

のだろう。

前歯が一本しかない人で、思わず若葉歯科医院に

手首を掴んで連れて行きたくなった。

彼は今回が6度目のお遍路で、今日は大日寺宿坊

に泊まると言った。

すると明日は焼山寺ですねと言うと、ああ、焼山寺

から藤井寺と今回のお遍路の少年場となるだろう

と言った。

突「正念場」

私が速足で歩くと、そんなに急ぎなさんな、ゆっくり

行こうぜと言った。

早くしないと、私には猫と花が家で待っているのです。

私、毒身ですので彼らが餓死してしまうのです。

突「独身」

しかし左手に見えるはずの国分寺はいつまで経っても

見えて来ず、他の道と合流しました。

キョロキョロしていると、またベテランさんに

追い着かれ右へ行くと国分寺だよと言われました。

どうも私は左へ曲がる道を間違えたようです。

一本目ではなく日本目の道を左に曲がらなくては

いけなかったようです。

突「二本目」

いちいちうるさいなあ。

やはり、かつて歩いた道も逆方向だといささか勝手

が違うようです。

読者の皆様、国分寺と聞いてなにか気づきませんか。

賢明な読者なら、あれ前にも聞いたことがあるぞ

と思い出したはずです。

そうです、お遍路のお寺には、その名の通り国に

一つの国分寺があるのです。

ここは徳島国分寺、28番が高知国分寺、59番が

愛媛国分寺、80番が高松国分寺となるわけです。

それがなんだ、と言われればなんでもありません。

どうも林のような落ちのない説明で申し訳

ありませんでした。

15番札所を出て左に向かう。

思い出深い常楽寺が待っている。

去年私はここで持病のパニック障害を起こしてしまった。

めまい、吐き気、動機、呼吸困難、体の震え、恐怖感、

不安感等に襲われました。

初めてこの症状と遭遇した時、私は死を予感しました。

以後数十回障害は起きましたが、一度も死んでいません。

そのうち、この病気は命に別状はないものだと

わかりました。

しばらく我慢していれば嵐は去って行くものだと

知りました。

初期の頃は数日間続いた症状も今では長くても

1時間で治まるようになりました。

ただ、高速道路の運転は絶対厳禁です。

また大勢の人前に出るのも極力控えています。

これがなかったら、また全く別の人生を歩んで

いたと思いますがね。

境内に入る。

やはり祝日だ、お遍路さんはかなり多かった。

お参りを終え、白猫のユキちゃんを捜す。

境内をくまなく捜したがユキちゃんはいなかった。

多分お遍路さんが多すぎて、ユキちゃんは

寄り付かなかったみたいだ。

来た日が悪かったかな。

納経所でその話をすると、うちにも猫がいるので

うちの猫で我慢してと言われた。

再び境内に出ると、グレーの華奢なまだ6か月

くらいの女の子がいた。

私は抱き上げて彼女を撫でた。

ゴロゴロと喉を鳴らした。

よく慣れているなあ、と周りの人が言った。

そりゃ私には6,25%猫の血が流れていますものね。

突「お前はソフトバンクのおやじか」

常楽寺を後にした。

由岐駅のユキちゃんとは常楽寺のユキちゃん、木岐駅

のキキちゃんとは当然魔女の宅急便のキキちゃん。

本当は打ち上げられた鯛をめぐって2匹が言い

争うストーリーだったのですが、例えば白と黒

についてお互い自慢したりけなしたりという

展開を考えていたのですが、うまく行かず

あのような中途半端な結末となってしまいました。

もう少し煮詰めていいものができたら、もう一度

披露したいと思います。

どうですか鴨島さん、このストーリーを元にして

ポスターでも作り、来年の夏の田井ノ浜のキャンペーン

でも展開したら。

さしずめイメージキャラクターは私が男優さんの中で

一番好きな東出昌大さん。

えっ、ギャラが高過ぎて赤字になっちゃうし、

職域を逸脱しているから駄目ですって。

じゃあ社長になってから考えて下さい。

 

大日寺へ向かう。

大日寺も4番、13番、28番と同じ寺名が3つある。

だから何だと言われたら、やっぱり何でもありません

と答えるしかありませんが。

そんな独り言を言ってるうちに私は、このお遍路で

初めて道に迷った。

去年、私は大日寺から常楽寺まで車に乗せてもらった。

車の中では、気を使って、運転する人との会話に重点を

置きあまり景色を見ていない。

また車の中では自分の目の位置も低いので、バスのよう

に状況を把握しづらいのが迷子の原因だと思う。

私はとりあえずバスの通る大通りへと出た。

そして右へと向かう。

目の前の、高い所を車が走っている。

まずはあそこまで行こうと歩を進める。

おばあちゃんが畑仕事をしている。

なにか、嫌な予感はしたが、大日寺への道を尋ねる。

この道(207号線)をずーっと行くと橋があるので、

それを渡って、橋の途中から右に折れて行くと

着きますよと、おばあちゃんは言った。

なに、橋の途中から右に曲がれだと、私を土佐衛門

にでもする気かえ。

訳の分からないことを言うおばあちゃんだ、

とりあえず橋まで行って、また人に訊けばいいや

と207号線を進む。

橋が見えた。

橋には車道とは別に歩道がついていた。

橋の途中から右だと言われていたので、私は右の

歩道に入った。

200mも行くと、たしかに右に下りて行く道は存在した。

おばあちゃんの言う事は正しかった。

疑ったりしてごめんね。

大河というのは大半を河原が占める。

だから大河と言う。

橋はこの河原をも含めて跨いでる。

高知のはりまや橋のように川幅=橋幅ではないのだ。

そしてその河原が農地や宅地として使われている

ところもある。

その河原を走る道が大日寺への遍路道となっているのだ。

高い道路が堤防の役目も兼ねていることも、この時

初めて知った。

私はおばあちゃんの言う通り遍路道を進む。

最初の分岐点を躊躇しながらも左に曲がる。

真っ直ぐ行く方向からお遍路さんの姿が見える。

急いで引き返し、真っ直ぐの道を進む。

そのまま川沿いの道をどんどん進む。

地図を見ると遍路道が私には川沿いの道に見えたから。

あくまでも個人的な感想ではあるが。

それってテレビショッピングじゃんと言う

突っ込みはなかったので自分でやった。

ギャグと言うのはこのように緩急を織り交ぜて

やらなければいけない。

しかしやがて行き止まりと言う過酷な現実が

ニヒルな笑顔を浮かべて私を待っていた。

私が初めて小説を書いた時、人から言われたのと

同じ言葉が空から聞こえて来た。

「君は道を誤った」

私は来た道をもどり、畑で農作業をする人に

道を尋ねた。

「あなたは一本、道を間違えてる。大日寺へいくには

その前の道を行かなきゃ。さっきあなたの歩いている

のを見ておかしな方向へ行くなと思っていたんだ」

と言って農作業者は行くべき道を指で示した。

「じゃ、あぜ道を通らせてもらいます」

と、道なき道を通り、やっと遍路道に戻った。

常楽寺での滞在と、迷い道で随分と時間を喰って

しまい、時刻は16時近くになっていた。

私は大日寺へ向かう途中である一軒の家を訪ねた。

そう、去年常楽寺まで乗せて行ってもらった人の家だ。

実は名古屋で買ったうなぎパイは、この人への

あの時のお礼なのである。

私は呼び鈴を押した。

が、誰も出て来なかった。

もう一度押したが何も返答もない。

3分が経過した。

徳島行きのバスは16時19分だ、お参り、納経のことを

考えるともうギリギリの時刻だ。

私は義理ある人との再会をあきらめて札所へと向かった。

また来年がある、今度は歩き遍路になるのでバスの時刻

は気にしなくてもいい。

帰って来るまで待つぞ。

帰りの名東経由徳島駅行きバスに乗った。

みょうどうと言うが私には尿道と聞こえてならない。

明日はまたこの道を神山まで行く。

往復のバス代が勿体ないが、ホテルを予約して

あるので仕方ない。

しかし仮に大日寺の宿坊に泊まったとしても、宿坊の

前を通るバスは徳島発7時10分が一番である。

だったら気楽なビジネスホテルの方がいい。

16時50分徳島駅に着いた。

ホテルに戻り、すぐさま私は徳島駅構内の地下の

お土産店街に行った。

前日牟岐線に乗る時に、みつけておいたのだ。

車ならいざ知らず、歩きの旅行者には、お土産は

荷物になる。

それ故にこのような、帰る直前の購入になってしまう。

本当はあそこで見たあのお土産よかったんだがなぁと

思っても諦めざるを得ない。

お土産は殆どが食べ物で、お菓子、柚子製品、うどん、

徳島ラーメン、祖谷のそば等々。

私はうどんはあきたし、饅頭は虫歯になるし、ラーメン

は体に悪いし、柚子羊羹は前回買ったし、で祖谷の

そばを3つ買った。

ついでに晩ご飯もそこで買ってホテルに帰った。

それにしても鶴林寺の山道、自分が想像していたきつさを

100としたら60くらいのものでしかなかった。

一緒に歩いた女性は焼山寺も似たようなもの

だと言ったので明日はそんなに心配していない。

これは神山方面から登った山道のことだが。

飯を食べ風呂に入り8時半に寝る。

つづく   本日の歩行距離16,58km